昭和50年月日不明 五月十八日

 タイトル不明 北九州教区青年部信心研修会?   音声テープ50048-2

 信心によって、愈々心が純粋な素直な心が頂けて来る様になるのと云うのは丁度、鉛筆を削る様な物です。鉛筆を削って行くから芯が出る。その芯が純粋な削って出て来るから。純粋な素直さです。唯生まれ付き素直というそれとは意味が違うのです。信心で言う素直さというのは削らなければ素直な心は生まれて参りません。
 昨夜合楽会でしたが添田教会ですか、今日ここで私が講師で、それから北九連、北九州の主だった青年の方達が皆んなここへ集まって私の話を聞く事になってるんです。それでもう一昨日から、幹部の方達が出てみえて、昨日も七、八人参って色んな準備があってます。でそれでその事を聞かれて自分はその青年じゃないのだけれども、あのー娘さんが青年の会の御用をしておられたけれども、赤ちゃんが出来られて出席出来なくなったから、お話を聞くだけでも、兎に角合楽教会という、どう云う会合でも合楽教会の話が出らない事がない。
 そりゃ良い事悪い事に付けてやっぱりそうである。一辺合楽の教会にお引き寄せ頂きたいち言うて、昨日も早くから参って見える。それで又初めての所だし、自分で運転して見えるのですから、あの山超えして来んならんですからね、それで、あの山を越えてすぐの所であのお教会の事を道を聞かせて頂いたらね、その人は信心も何んにも無い。ああ合楽さんですか、合楽さんならばここですよち言うてから、地図まで書いてから教えてくれたという話を昨日しておられましたがね。
 私それを聞かせて頂いてあり難いなあと思いますね。全然あんな遠い所でしかも合楽の事を聞いたらその人があの、信心も無いのにその地図まで書いてくれたと言う程しに合楽は有名になっておると云う事なんです。久留米の町何々教会というて聞いたけれども、どげん所か知らん、さあそげん所があったでしょうかと、云う様な事くらいこの頃からも結婚式のバスがここへ来ましたもん。それがどっか久留米教会でその、結婚式がある事になっとったらしいです。
 それでその、金光様はどこじゃろうかというたら、ああ金光様ならどうとこう吉井手前に合楽と言う所がありますよち言うて、ここまで来とったと。それで又、三里の道を引き返して行かなんと云う様にですね、それ程しに有名じゃないと云う事です。先ほど原さんが近所のお店に買い物に行かれたげなら、もうしんみりあなた方合楽にお参りをしなされんなら、そーにゃ合楽と言う所は金要る所げなのち、云う話からですね。
 終いにはとうとうそのおかげの泉ばいっちょ私に読ませてくれちごたる所迄話が行ったと云う事ですけれども、やっぱりお供えをすると云う事はね。これは身を削る事ですから、ね。しかもだから芯が出るのですから、だからおかげ頂くのですから、そげん言やもう合楽に参りなさる所にはいっちょん貧乏人のおんなさらん話ですの。
 いんや私どん家んごたるそれこそきつい所もあるけれども、段々おかげでその日暮らしでもです、神様の間違いの無ーいその日暮らしをさせて貰えてね。それが段々百円のその日暮らしから、千円のその日暮らしが出来ける様になり、万円のその日暮らしが出きる様になるとじゃけん。
 もう合楽の人達は嬉しゅうして有り難うしてこたえんな、お参りしよんなさっとであり、お供えしよんなさっとですよと云う意味の事を話されたと云う事なんです。けれどもね、そういう様な事ですからよい事悪い事につけてやっぱこうね神様のごひれいです。
 もう本当にあり難いと思わせて頂いたんですけれども、昨日そんな訳で合楽会が丁度十一時過ぎました。それで私はその方にあの風呂に入って休みなさいと私は言ったのです。嫌んや、所が嫌んや入りませんというて言いよなさる、ああそうですかというて私が下がった所が、その中村さんと田中さんがはあ、親先生から風呂に入れて云われて入り無さらん事があるもんですかち。
 それー私くしどん親先生はあげん仰って頂くならば、もうどう云う事でもはいの一つより他にないて。ここの人達皆おかげを頂いておるのは言うなら親先生の前にはもうそれこそ、ーもないニもない、はい一つで行こうという精進をしよるとよ、という意味の事を話した。そげならいっちょお風呂頂こうち言うてから頂く。なら私くし共もお世話になろうち言うてから三人で入ったっち云う訳。
 それで今日はさっきから中野さんの話を聞いてですたい、成る程私がその方が風呂に入りなさらなきゃならない訳が分かったのです。中野さんと同じにやっぱりその喉から声の出らない病気です。だから見て裸になって、言われる事がです、ちょいと見て下さい私はこげな病気で注射はこげんしておるという話から、はあ、そんなら私し方もういっちょ酷かった。ばしょうど、ばしょうどて何かていうあるでしょう。
 それでもう今の医学ではどうにも出来ない様な病気ですけれども私がある時にね、その事の病気の御届けをさせて頂いたら親先生が中村さん声が出らんなら出らんとがおかげがち言わっしゃった。もうそれからもう声に出らん事もおかげと思う事なりましたち。もうそれこそびっくりされたらしいですね。
 たったその一言で安心したち言うんですから。けどおかげで以来医者も言わなきゃ薬もいらん。おかげを頂いて、なら声も出らん事もないこげなおかげを頂いておる。あなたの場合はもうそれこそこうやってね、注射だらけであるという話。そんな事ここでお届けされませんから知りませんと言われる。
 けれども風呂に入らなければそう言う事になって来にゃー解らないね。ですから私は思うのにね、この合楽の方達が愈々稽古して行くのは、惟はもう、だから馬鹿でもちょいでも良いと云う事ですよ。頭が良うなからにゃならんと云う事じゃないです。けれどもお互いがです、親先生の仰る事は神様の仰る事としてね、金光大神が言われる事として、はいと言うて素直にきけれる所にね、金光大神の働きと同んなじ働きが頂けれる訳です。
 親先生はあげん言いなさるばってんかのと言うたらいかん。所が今の例えばならこの近所の教会でですね、例えば親先生の仰る事をその様に頂けれると云う人は先ず先ず無いでしょうね。その人もそげな訳で大変熱心な御信者さんですけれどもです。
 兎に角素直にはいと言えれると云う事が信心の尊い素晴らしい事であると、云う事は解っておるけれどもです、中村さんと田中さんの話を聞かせて頂いて、そんならお風呂を頂こうと云う事によって自分の今度は本当に助かる道がそっからもう開けて来るのですからね。
 兎に角そのハイもです唯生まれ付き素直と云うのじゃいけません。信心が磨かれていうなら削られて、ね、身を削り心を削りして行きながらです、出てくるその信でならなければ、本当にお役には立たないと云う事ですね。昨日善導寺の(こやの)が今北海道に行っておられます。
 あのわざわざこの写真を見せる為に絵葉書を書きましたち書いてありますがね、あのあれは何とかという詩人ですね。東海の、あの小島の磯にというのがありましょうが、あれは、啄木ですかね、啄木の銅像ですこれは。それにね、あの有名な東海の小島の磯の白砂にという句を思い浮かべておりますという意味の事を書いておりますが、それこそ東海の小島の磯の白砂に我、我無き濡れてカニと、蟹とたわむるか何かというね、とても素晴らしい本当にその、情がこちらに通うて来る様な歌を残しましたけれどもね、けれどもそういう素晴らしい頭脳やら情操の豊な人だったけれども一生貧乏で終わったと云う事です。今の金光教がこれじゃいでしょうかね。
 素晴らしい教え、素晴らしい天地の御恩徳をあの聞かせて頂くと云う事はこれより以上の情操はないです。例えばそれこそあの、朝の日の出を拝んでもあり難い夕日が落ちてもありがたい。それこそ羽田野さんじゃないけれども、来る道々例えばあの雑草に白露がたまっておるのをみても感動すると云う様に、こういう素晴らしい情操はないです。
 だからそういう事の素晴らしい事をなら情操はいかにも豊になってい来よるごたるけれども、おかげの方は我なき濡れてカニとたわむると言った様な事じゃないでしょうか。私はカニという事は横這いするという事。ね。だから本当の信心じゃない、言うなら先生と戯れておる様な物ですよ。
 全然おかげを受けていないです。矢張りその、本当に今日青年会の方達が集まるからこの事をどうでもこうでもね、とても金光教が助からにゃならん、金光教がもう行き詰まっておるけん、金光教をどうかせんならんというても躍起になったっちゃ金光教がいわば元の勢いになる事はなかち。今の様な状態であっては。
 だからね、私は神様の一番願いとされる所、神様はここが痒かち言うならそこば掻かせて貰う様なおかげを頂かにゃね、神様の発動になって来ない。ね。神様が発動なしません。人間がいかに金光大神を現すち言うたっちゃ金光大神は向こう向いて御座るけんいっちょん現れなさらんじゃないか。
 二十五年間も御取次成就信心生活運動を言いながら一つもなら信者が、いみずどころか減って行きよると云う事。ジリ貧だと云う事。ね。それはどう云う事かというと、その本当の所に一つもね、神様の痒かち言いよなさる所ば掻かんから。ね。一番神様が今が歯痒い思いをなさると云うか、神様が一番心を痛めておられるのは今地球上の危機です。ね。
 ですから此処ん所をなら、今なら金光教の信者が五十万と言われておるが、その五十万の者がです、そりゃ金光教の建て直してんなんてんち言う事じゃなくてね、惟が本当に世界のそういう難儀に取り組んで行く様な事に具体的なね策を講じるならばです、それこそ神様が先に立って現れて下さる。
 所謂合楽次元活動それなんですよ。神様が不思議な働きを示し現せて下さる。神様が発動ましますどんな素晴らしい何百馬力なら何百馬力のその発動があってもですね、人間の力で惟ば動かす事は出来ん。ね。
 何処にかボタンばあるとばボタンばいっちょ押せばね、がーちいうごたる回るとばってん、そのボタンば探し切らんのる。そしてああでもなかろうかこうでもなかろうかと人知の限りを尽くしよるごたるけれども、惟じゃほんな事訳きゃー分からん。ね。
 それでどう云う訳で合楽であんなに人が助かるか。どう云う訳であげな医者が見放す様な病人でんどんどん助かるか、あれだけどうしてお参りが多いかその元ば探そうとはしない。なら今日でもお参りして来ておるけれども、朝の御祈念に出て来ておるのは一人が二人か。わざわざここへ来ながらね残念でしょうが。 
 なら今日皆参って来る人達もそげな事をテーマにしてからの、話し合いでしょうけれども、もう本当に惟が、本当だと言うても本当に頂ききらならかったらです、それが素直にはいと頂ききらなかったらおかげにゃーならん。ね。兎に角それにはそういう素直な本当のおかげの頂けれる心を頂く・・・
(途中切れ)